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yuuの一人芝居

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創作秘話 「瀬戸の夕立」立石孫一郎伝

創作秘話、「瀬戸の夕立 立石孫一郎伝」2016/7/31

 この作品を書いたのはもう四十年も前のことだ。田邉泰志さんがシナリオ「竜馬惨殺」を書き黒木和夫が映画を取ったときに、立石孫一郎の事を参考にしたといい「倉敷備中騒動記」角田直一が書いたものを教えられたという事が書く動機になった。読んだが、幕末の時代に薩長によくも財政の余裕があったものだと言う疑問がわいた。もともと竜馬については懐疑心があった。全国を旅し、江戸で剣術修行をし、亀山社中、海援隊となるとかれに何処に金があったのだろうかと言う疑問がわいていたころだ。長宗我部の敗残兵で山内家には郷士の身分の彼が、と考えると何かがあると思わない方がおかしくないか。
 角田は郷土史家であり京大を出て、給食弁当屋をやっていた。それを読みもっと違ったものが読みたいと探していたら郷土史家の井上賢一とめぐり合った。かれは純真な人で丁寧に語ってくれるのを納得して聞けた。日頃はペンキ屋をして飛び回ってペンキだらけになっているが汚れがなく親切で話を沢山聞かせてくれた。倉敷の蔵の何石と言うのは米が入る量ではなく、蔵の壁を乾かすのに炭を何石たいたかで決まると言う事、また、当時の髪結は火消しの役を持っていたなど、細かい事まで教えてくれた。
 孫一郎は播磨の二月村の大庄屋大谷家の長男として生まれている。母の出所は作州の立石家、後に夫婦になる大橋家のお恵の母は立石家の娘、と言う事は孫一郎の母とお恵の母は姉妹と言う事になる。
 ここでは、孫一郎と書かせてもらう。が、幼少は恵吉、後に敬之助となり立石孫一郎と名乗るのだが、便宜上孫一郎と書く。
 文久の全国的な大飢饉、幕府は津止め令を出して食料の高騰を抑えようとしていたが、心なき商人はそれを破り江戸大坂に荷を出して儲けていた。
 少し省略するが、そこで下津井屋事件が起こることになる。それをやったのは孫一郎と言う事でかれは倉敷を出奔する。
 それから長州の南奇兵隊に入隊、倉敷代官所、浅尾陣屋を焼き討ち、奇襲を行い、備中の放れ虎となって逃げまどい周防に帰り千歳橋で銃殺をされて亡くなると言うのが簡単に書けば荒ら筋である。
 孫一郎の行動に対して様々な意見が行きかっていたが、私には納得がいかなかった。南奇兵隊士百五十名も脱退させて
事件を起こす、高杉、竜馬の影を見たのだ。孫一郎の一存でそれがかなうだろうかと言うのが私の考えだった。
 四十年も前、今ははっきりと薩長のクーデターとして世の中に知れ渡っているが当時は司馬遼太郎が書いた「竜馬がゆく」の中の竜馬像が正しいという認識が世論であた所為で私の様な考えの人は全くいなかった。
 これをある思惑で書きあげた。下津井屋事件は時の代官の櫻井久之助、孫一郎に命を下したのは高杉、その後ろに竜馬として書いた。
 どのような小説でも何か今までの考えを新しいものに変えなくては書く意味がない言うのが私の持論であったからそのようにした。
 今、立石孫一郎を再評価する動きがみられる。それはそれとして、書いた私には何の関係もない。私は歴史を見、そこでうごめいていた人たちを見、維新後の姿を俯瞰して其の様
に思ったから書いたという事だ。
 あくまで想像の産物として書きあげた。
 今、新しい視点でいてもいいと思うが、前作を壊したくないと言う思惑もある…。


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